【概要】
享保の飢饉は、享保十七年にあたる1732年に西日本を中心に起きた飢饉です。主な原因は稲につく害虫の大量発生とされ、その害虫はウンカだったとする説が有力です。九州や中国、四国の諸藩で収穫が激減し、博多の町だけでも約六千人が亡くなったと伝えられます。福岡市博多区の中洲に祀られている川端飢人地蔵尊は、この飢饉の犠牲者を弔うためのものです。
【歴史】
享保の飢饉は、1732年の夏に西日本の各地で稲の害虫が大発生したことから始まりました。被害は九州や中国、四国から畿内にまで及び、収穫が平年を大きく下回った藩が数多く出たとされます。翌1733年には米価の急騰を受けて、江戸で米問屋が打ちこわしにあいました。江戸で起きた最初の大規模な打ちこわしといわれ、飢饉の影響が遠く将軍のお膝元にまで届いたことを物語っています。
【特徴】
享保の飢饉は、のちの天明や天保の飢饉が東北の冷害を主な原因としたのに対し、害虫による西日本の被害だった点に特徴があります。時の将軍は八代の徳川吉宗で、幕府は被害の大きい藩に米を回して救済に当たりました。この経験から、やせた土地でも育つ救荒作物としてサツマイモが注目され、のちに青木昆陽が関東で栽培を広めるきっかけのひとつになったとされます。
【見どころ】
福岡市博多区の中洲を流れる博多川の西岸に、白壁のお堂に納められた川端飢人地蔵尊があります。享保の飢饉で亡くなった人々を弔うために祀られた地蔵で、対岸の上川端町の人々が三百年近くにわたって守り続けてきました。夏には地蔵の祭りが開かれ、例年8月下旬に行われますが、日程は年によって変わります。繁華街のすぐそばにありながら、静かに手を合わせる人の姿が見られる場所です。
【トリビア】
享保の飢饉では、伊予国筒井村の農民である作兵衛が、自らは飢えながらも翌年にまく麦の種には手をつけず、種の袋を枕にして亡くなったと伝えられます。この話は義農作兵衛として語り継がれ、郷里のいまの松前町には作兵衛をまつる義農神社が建てられました。博多の飢人地蔵とともに、西日本の各地には享保の飢饉を伝える供養の場や言い伝えが今も残っています。
