江戸三大飢饉は、江戸時代に起きた飢饉のなかでも被害がとりわけ大きかった享保の飢饉(1732年)、天明の飢饉(1782〜1788年ごろ)、天保の飢饉(1833〜1839年ごろ)の三つを指します。享保は西日本での稲の害虫の大発生が、天明と天保は東北を中心とする冷害が主な原因とされます。寛永年間に起きた寛永の飢饉を加えて、江戸四大飢饉と数えることもあります。犠牲者の数は資料によって大きく異なりますが、各地に残る供養塔や地蔵が、当時の記憶を今に伝えています。
A.享保の飢饉は西日本での稲の害虫の大発生、天明の飢饉と天保の飢饉は東北を中心とする冷害が主な原因とされます。享保の害虫はウンカだったとする説が有力です。天明の飢饉はやませによる冷害で、浅間山の大噴火も一因とされます。天保の飢饉では冷害に洪水も重なりました。
A.犠牲者の数は資料によって大きく異なります。享保の飢饉では博多の町だけでも約六千人が亡くなったと伝えられます。天明の飢饉は江戸時代で最も多くの犠牲者を出したといわれ、全国で九十万人を超えたともいわれますが、数字には諸説あります。天保の飢饉でも東北や北関東を中心に多くの餓死者が出たとされます。
A.米価の高騰が都市を直撃し、打ちこわしや幕政の転換につながりました。享保の飢饉の翌1733年には江戸で米問屋が打ちこわしにあいました。天明の飢饉では1787年に各地の都市で打ちこわしが相次ぎ、田沼意次の失脚を早めたとされます。天保の飢饉のさなかの1837年には大坂で大塩平八郎の乱が起き、社会の動揺は天保の改革へとつながりました。
A.江戸四大飢饉は、江戸三大飢饉の享保の飢饉・天明の飢饉・天保の飢饉に、寛永年間に起きた寛永の飢饉を加えた数え方です。江戸三大飢饉は、江戸時代に起きた飢饉のなかでも被害がとりわけ大きかった三つを指します。
A.福岡市博多区の川端飢人地蔵尊や、青森県八戸市の対泉院の供養塔が知られます。川端飢人地蔵尊は享保の飢饉の犠牲者を弔う地蔵で、地元の人々が三百年近く守り続けてきました。対泉院には天明の飢饉の犠牲者を弔う餓死萬霊等供養塔があります。天保の飢饉のさなかに起きた大塩平八郎の乱は、大阪市北区の造幣局のあたりが始まりの地です。