【概要】
柴野栗山は、元文元年(1736年)に讃岐国の牟礼村、いまの香川県高松市牟礼町に生まれた朱子学者です。阿波の徳島藩に儒者として仕えたのち、天明8年(1788年)に老中の松平定信に招かれて幕府の儒官となりました。寛政異学の禁を定信に進言した中心人物とされ、生誕の地には遺品や遺墨を伝える栗山記念館が建っています。
【歴史】
柴野栗山は若いころ高松藩の儒者である後藤芝山に学び、のちに江戸へ出て林家の塾で修学しました。明和4年(1767年)には徳島藩主の蜂須賀家に儒者として召し抱えられ、京都にも長く滞在して、多くの学者や文人と交わっています。天明8年(1788年)、寛政の改革を始めた松平定信に見いだされて江戸に呼ばれ、幕府の儒官として聖堂の学問を立て直す役目を担いました。
【特徴】
柴野栗山の学問は、宋の朱熹の教えを正統とする朱子学に立つもので、さまざまな学派が入り乱れていた当時の風潮を憂えました。寛政2年(1790年)に定信が大学頭の林家に出した異学の禁は、聖堂で教える学問を朱子学に限るよう求めたもので、栗山の考えが強く反映されたといわれます。栗山はまた畿内の古い社寺に伝わる宝物の調査にも加わったといわれ、古文化財への深い関心も示しました。
【見どころ】
香川県高松市にある栗山記念館は、牟礼町の生誕の地に建つ記念の施設です。明治39年(1906年)に顕彰のための栗山堂が建てられ、平成3年(1991年)に改築されて今の姿になりました。館内には遺品や遺墨、書簡、著書が並び、隣の栗山文庫には国史や儒学の書物が収められています。ことでん志度線の八栗駅から歩いて10分ほどで、開館日は事前に確かめると安心です。
【トリビア】
柴野栗山が富士山を詠んだ漢詩は、誰か東海の水を将って濯ぎ出す玉芙蓉という句で始まり、富士をうたった詩の名作として今も吟じられています。栗山は文化4年(1807年)に江戸で亡くなり、墓は東京の大塚にある先儒墓所に残っています。この墓所には木下順庵や室鳩巣ら幕府に仕えた儒者が儒教の作法で葬られ、大正10年(1921年)に国の史跡に指定されました。
