古賀精里

(こがせいり)
📍 九州佐賀県 佐賀市🏯 歴史🎭 文化

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【概要】

古賀精里は、寛延3年(1750年)に肥前の佐賀藩士の家に生まれた朱子学者です。佐賀藩が天明元年(1781年)に開いた藩校の弘道館で教授を務め、藩の教育の礎を築きました。寛政8年(1796年)に幕府の儒官に招かれ、柴野栗山・尾藤二洲とともに昌平黌の学問を担っています。佐賀県佐賀市にある徴古館の西側には、弘道館をしのぶ記念碑が建っています。

【歴史】

古賀精里は佐賀藩士の子として生まれ、若くして京都や大坂に出て学びました。大坂では尾藤二洲や頼春水と交わり、陽明学から朱子学へと学問の軸足を移したといわれます。佐賀に戻ると藩主の鍋島治茂に重く用いられ、天明元年に城下の松原小路に藩校の弘道館が開かれると、その教授として藩士の教育を導きました。寛政8年には幕府に招かれ、江戸の聖堂で儒官を務めました。

【特徴】

古賀精里の家からは学者が相次いで出ました。長男の古賀穀堂は佐賀藩で教え、のちの藩主鍋島直正の教育係として藩政の改革に影響を与えています。三男の古賀侗庵は父と同じく昌平黌の儒官となり、海外の事情にも目を向けた著作を残しました。侗庵の子の古賀謹一郎も昌平黌の儒者となり、三代にわたって幕府の学問所に仕えた古賀家は、江戸後期の儒学の名門として知られています。

【見どころ】

佐賀県佐賀市にある徴古館は、佐賀藩主だった鍋島家に伝わる資料を収める博物館で、昭和の初めに開館しました。その西側には弘道館記念碑が建ち、古賀精里が教えた藩校の歴史をしのぶことができます。弘道館はのちに北堀端へ移って規模を広げました。周辺の佐賀城跡には佐賀城本丸歴史館や堀端の大楠が残り、水をたたえた広い堀に沿って城下町の面影をたどれます。

【トリビア】

古賀精里は文化8年(1811年)、朝鮮通信使を対馬で迎えた易地聘礼にも加わり、幕府の儒者として使節との筆談や詩の応酬にあたりました。これが江戸時代最後の朝鮮通信使となっています。寛政の三博士のなかでは最も遅く儒官に加わり、三人のうち最後まで存命だった人でもあり、文化14年(1817年)に江戸で世を去りました。その学風は子や孫に受け継がれ、幕末まで学問所に影響を残しました。

📅 最終更新: 2026/11/6
古賀精里
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です