老中の松平定信が進めた寛政の改革では、幕府の学問の立て直しも大きな柱になりました。このとき幕府の儒官に登用され、湯島の聖堂で朱子学を講じた柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里の三人を寛政の三博士と呼びます。寛政2年(1790年)の寛政異学の禁で聖堂の学問は朱子学と定められ、聖堂はのちに昌平坂学問所として幕府直轄の学校に整えられました。古賀精里に代えて、先に儒官を務め、のちに代官へ転じた岡田寒泉を数える説もあります。
A.三人が幕府の儒官となった時期はそれぞれ異なります。柴野栗山は天明8年(1788年)に老中の松平定信に招かれ、尾藤二洲は寛政3年(1791年)、古賀精里は寛政8年(1796年)に儒官となりました。古賀精里は三人のなかで最も遅く儒官に加わり、最後まで存命だった人でもあります。
A.聖堂の学問を朱子学に定めた寛政異学の禁には、三博士のうち柴野栗山と尾藤二洲が深く関わっています。寛政2年(1790年)に松平定信が出した異学の禁には、柴野栗山の考えが強く反映されたといわれます。尾藤二洲も『正学指掌』で朱子学を正しい学問とする立場を説き、この流れを学問の面から支えたと評価されています。
A.柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里の三人を寛政の三博士と呼びますが、古賀精里に代えて岡田寒泉を数える説もあります。岡田寒泉は先に幕府の儒官を務め、のちに代官へ転じた人物です。三人はいずれも湯島の聖堂で朱子学を講じました。
A.ゆかりの地は香川県・愛媛県・佐賀県の3県に分かれています。高松市には柴野栗山の栗山記念館、四国中央市には尾藤二洲記念碑、佐賀市には古賀精里が教えた藩校をしのぶ弘道館記念碑があります。直線距離では柴野栗山と尾藤二洲のゆかりの地が約60km、古賀精里のゆかりの地とはそれぞれ約370kmと約310km離れています。
A.尾藤二洲と古賀精里は、ともに大坂で学び親しく交わった間柄です。二洲は大坂で片山北海の塾に学び、頼春水や古賀精里と交わりました。精里も大坂で二洲や頼春水と交わるなかで、陽明学から朱子学へと学問の軸足を移したといわれます。のちに二人は幕府の儒官として、柴野栗山とともに昌平黌の学問を担いました。