丹羽長秀

(にわながひで)
📍 近畿滋賀県 彦根市🏯 歴史

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【概要】

丹羽長秀は尾張に生まれ、若いころから信長に仕えて厚い信頼を集めた重臣です。1571年に近江の佐和山城を任され、のちに若狭一国を与えられたほか、安土城の築城では総普請奉行を務めました。本能寺の変ののちは羽柴秀吉とともに明智光秀を討ち、清洲会議でも秀吉を支えます。賤ヶ岳の戦いののち越前と加賀の一部を与えられ、1585年に北ノ庄で世を去りました。

【歴史】

丹羽長秀は1535年に尾張で生まれ、十代で信長に仕えました。1571年には浅井方の磯野員昌が守る近江の佐和山城を包囲して開城させ、城主として湖東の要地を押さえます。その後は若狭一国を任され、1576年に始まった安土城の築城では総普請奉行を務めました。本能寺の変の際は大坂で四国攻めの準備をしており、羽柴秀吉と合流して山崎の戦いに加わりました。1585年に五十一歳で没しています。

【特徴】

丹羽長秀は合戦の指揮だけでなく、築城や政務の取りまとめにも優れた武将でした。信長の兄の娘を妻に迎え、子の長重も信長の娘を娶るなど、織田家との結び付きは格別で、信長からは九州の名族にちなむ惟住の姓も与えられています。清洲会議では羽柴秀吉が推す三法師を後継ぎとすることに賛成し、その後に柴田勝家と秀吉が対立したときにも、秀吉の側に立って賤ヶ岳の戦いに加わりました。

【見どころ】

丹羽長秀が城主を務めた佐和山城の跡は、滋賀県彦根市にある標高約233メートルの佐和山の山頂一帯に広がっています。のちに石田三成の居城となり、関ヶ原の戦いののち彦根城が築かれると廃城になったため、建物は残っていません。西の麓にある龍潭寺の境内から登山道が延び、本丸跡からは琵琶湖や彦根の市街を見渡せます。登山道の通行状況は変わることがあるため、事前に確かめておくと安心です。

【トリビア】

信長の家臣を評した「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」という言葉では、通称の五郎左衛門から「米五郎左」とうたわれました。米のように毎日欠かせない存在という意味とされます。晩年は胃の病に苦しみ、腹を切って病の塊を取り出し秀吉に送ったという壮絶な言い伝えも残ります。長秀の跡は子の長重が継ぎましたが、まもなく所領は大きく減らされました。

📅 最終更新: 2026/11/6
丹羽長秀
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です