織田四天王は、織田信長の家臣団のなかでも特に大きな働きをした柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀の四人を、仏法を守る四天王になぞらえた呼び名です。四人はいずれも一国規模の領地や方面の軍を任され、本能寺の変の直前には勝家が北陸、一益が関東、光秀が畿内の諸将を受け持ち、長秀は四国攻めの準備を進めていました。呼び名は後世のもので、一益や光秀に代えて羽柴秀吉を数える説もあります。
A.織田四天王は柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀の四人を指す呼び名ですが、滝川一益や明智光秀に代えて羽柴秀吉を数える説もあります。織田四天王という呼び名は後世のもので、織田信長の家臣団のなかでも特に大きな働きをした武将を、仏法を守る四天王になぞらえたものです。
A.本能寺の変の直前、四人はそれぞれ別の方面を任されていました。柴田勝家は北陸、滝川一益は関東、明智光秀は畿内の諸将を受け持ち、丹羽長秀は大坂で四国攻めの準備を進めていました。1582年に本能寺で信長を討ったのは、このうちの明智光秀です。
A.四人の歩みは本能寺の変ののちに大きく分かれました。明智光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、丹羽長秀は秀吉と合流してこの戦いに加わりました。滝川一益は北条氏に敗れて伊勢へ戻りましたが、関東からの帰りが遅れて清洲会議に加われませんでした。柴田勝家は1583年の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに自害しています。
A.柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益には、戦いぶりや人柄を表す異名が伝わります。柴田勝家は「鬼柴田」「かかれ柴田」と呼ばれ、水がめを割った逸話から「瓶割り柴田」の異名も残りました。丹羽長秀は毎日欠かせない存在という意味で「米五郎左」とうたわれ、滝川一益は「進むも滝川、退くも滝川」とたたえられたと伝わります。
A.ゆかりの地は福井県・滋賀県・三重県・京都府に分かれています。柴田勝家の柴田神社は福井市、丹羽長秀の佐和山城跡は彦根市、滝川一益の長島城跡は桑名市、明智光秀の福知山城は福知山市にあります。直線距離では丹羽長秀と滝川一益のゆかりの地が約40kmと最も近く、滝川一益と明智光秀のゆかりの地が約150kmと最も離れています。