内藤昌豊

(ないとうまさとよ)
📍 関東群馬県 高崎市🏯 歴史

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【概要】

内藤昌豊は、武田信玄・勝頼に仕えた重臣で、上野国の箕輪城を城代として預かり、関東の上杉氏や北条氏に備えた武将です。近年は文書に残る昌秀の名で呼ばれることも多く、甲府市は内藤修理亮昌秀として紹介しています。1575年の長篠の戦いで奮戦の末に討死しました。群馬県高崎市にある箕輪城跡は、城代として守った地としていまも訪ねることができます。

【歴史】

内藤昌豊は甲斐の工藤氏の出身とされ、のちに信玄の命で内藤氏の名跡を継ぎました。信濃の攻略で働きを重ね、永禄9年ごろまでに深志城代になったと甲府市は伝えています。武田氏が上野国の西部へ勢力を広げると、長野氏の本拠だった箕輪城の城代に抜擢されました。長篠の戦いでは三重の柵を突破するほど奮戦したものの、徳川軍の反撃を受けて討死しています。

【特徴】

内藤昌豊は、華々しい武勇談よりも、軍勢をまとめ政務をこなす堅実さで評価されてきた武将です。軍学書の『甲陽軍鑑』には、信玄が昌豊ほどの者の手柄は当然のことだとして、あえて感状を与えなかったという話が見え、信頼の厚さを物語る逸話とされます。上野では、上杉謙信と北条氏という二つの大勢力と境を接する難しい地域の守りを任されていました。

【見どころ】

群馬県高崎市にある箕輪城跡は、榛名山の東麓の丘陵に築かれた平山城の跡で、国の史跡に指定されています。深い空堀や土塁が城の大きさを伝え、平成28年度には郭馬出西虎口門が復元されました。高さ6.5メートルほどの櫓門は、戦国時代の城門の復元として全国でも最大級とされます。城は武田氏ののち、北条氏や徳川家の井伊直政へと主を変えていきました。

【トリビア】

昌豊と昌秀という二つの名は、軍記物を通じて広まった昌豊に対し、本人が出した文書には昌秀と記されていることから生じた違いとされます。官途名は修理亮で、内藤修理の名でも知られました。跡を継いだ養子の内藤昌月も箕輪城を守り、武田氏の滅亡後は北条氏に仕えています。四天王のなかでは逸話が少なく、そのぶん実務に長けた姿が伝わる人物です。

📅 最終更新: 2026/11/8
内藤昌豊
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です