高坂昌信

(こうさかまさのぶ)
📍 中部長野県 長野市🏯 歴史

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【概要】

高坂昌信は、武田信玄の近習から取り立てられ、北信濃の海津城を城代として守り、越後の上杉謙信に備えた武将です。本来の名は春日虎綱で、高坂昌信の名は後世の書物を通じて広まりました。退き際の巧みさから「逃げ弾正」とも呼ばれます。四天王のうちただ一人長篠の戦いに加わらず、1578年に世を去りました。長野県長野市にある松代城跡が、かつての海津城の跡です。

【歴史】

高坂昌信は甲斐の石和の豪農、春日氏の出身と伝えられ、若くして信玄の近習となりました。信濃の攻略が進むと、天文22年に小諸城代、弘治2年に海津城代となったとされます。海津城は千曲川のほとりに築かれ、川中島をはさんで上杉方と向き合う最前線の拠点でした。永禄4年の第四次川中島の戦いでは、妻女山の上杉軍を攻める別働隊に加わったと伝えられています。

【特徴】

高坂昌信は、退き際を見極める慎重な戦いぶりから「逃げ弾正」と呼ばれました。臆病という意味ではなく、兵を無駄に失わない用兵の巧みさをたたえた呼び名とされます。武田家の軍学を伝える『甲陽軍鑑』は、昌信が語った内容をもとに書き継がれたとされ、その原作者に擬せられてきました。高坂の姓は北信濃の香坂氏の名跡にちなむとされ、本人の文書では春日の姓が使われています。

【見どころ】

長野県長野市にある松代城跡は、海津城がのちに改められた城の跡で、江戸時代には真田氏が治めた松代藩の居城となりました。平成16年には太鼓門や堀、石垣などが復元され、往時の姿をしのぶことができます。高坂の墓と伝わるものは、市内の松代町豊栄にある明徳寺に残り、寺伝では高坂が篤く帰依した寺とされます。城と寺をあわせてたどると、その足跡が見えてきます。

【トリビア】

高坂昌信は、真田幸隆の攻め弾正、保科正俊の槍弾正と並んで、武田家の三弾正の一人に数えられます。長篠の戦いでは海津城に残って上杉方への備えにあたり、敗れて戻る勝頼を迎えたと伝えられます。その後は武田と上杉の和睦に力を尽くしましたが、1578年に病のため世を去りました。同じ年の春には、長く向き合ってきた宿敵の上杉謙信も亡くなっています。

📅 最終更新: 2026/11/8
高坂昌信
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です