【概要】
松永久秀は、畿内の覇者三好長慶に仕えて頭角を現し、大和一国を支配した戦国武将です。将軍足利義輝の殺害、主家三好氏の乗っ取り、東大寺大仏殿の焼き討ちという三つの悪事で知られてきましたが、近年の研究では、いずれも久秀の仕業とは言い切れないとされています。1577年に織田信長に背き、奈良県平群町にある信貴山城で自害しました。
【歴史】
松永久秀の出自ははっきりしませんが、摂津の出身とする説が有力です。三好長慶の右筆や奉行として仕え、才覚を認められて重臣に上りました。1559年ごろから大和へ進出し、信貴山城と奈良の多聞山城を拠点に国を治めます。長慶の死後は三好三人衆と争い、1568年に上洛した信長に従いますが、のちに二度背き、1577年に信貴山城で一族とともに最期を迎えました。
【特徴】
将軍殺しは1565年の永禄の変を指しますが、久秀はこのとき大和にいて、襲撃に加わったのは子の久通らでした。主家の乗っ取りも、長慶の死との関わりは近年否定的に見られています。1567年の大仏殿の焼失も、三好三人衆との戦いのさなかに起きた火災で、久秀が意図して焼いたとは言えないとされます。信長が家康に久秀の三悪事を語った話は、江戸時代の書物に出てくるものです。
【見どころ】
信貴山城の跡は、奈良県と大阪府の境に近い標高437メートルの信貴山の山上に広がり、山頂の雄岳を中心に尾根づたいに曲輪の跡が残ります。いまは建物はなく、木立の中に堀や土塁がわずかに見られるだけです。中腹には毘沙門天で名高い朝護孫子寺の堂塔が建ち並び、参拝とあわせて山頂まで歩けば、眼下に奈良盆地を一望できます。
【トリビア】
久秀が奈良に築いた多聞山城には四階建ての櫓があったと記録され、天守の先駆けの一つとされます。城の長屋形式の櫓が多聞櫓と呼ばれるようになったのは、この城に由来するという説があります。また久秀が自害したのは天正5年(1577年)10月10日で、ちょうど十年前に大仏殿が焼けたのと同じ日付だったことから、当時の人々は仏罰だとうわさしたと伝えられています。
