日下部鳴鶴

(くさかべめいかく)
📍 近畿滋賀県 彦根市🎭 文化🏯 歴史

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【概要】

彦根藩士の家に生まれた日下部鳴鶴は、明治政府の太政官で大書記官まで務めたのち、明治12年(1879年)に官を辞して書の道に専念した人物です。翌年に来日した楊守敬から六朝の碑の書法を学び、鋭さと重みを兼ねた書風を築きました。全国に多くの門人を育てて近代日本の書聖とも称えられ、滋賀県彦根市にある彦根城博物館が鳴鶴の書簡を収蔵しています。

【歴史】

日下部鳴鶴は天保9年(1838年)に生まれ、同じ彦根藩士の日下部三郎右衛門の養子となりました。万延元年(1860年)の桜田門外の変では、藩主の井伊直弼とともに養父も命を落としています。明治維新後は新政府に出仕し、太政官の大書記官として大久保利通のもとで働きましたが、明治11年(1878年)に大久保が暗殺されると、翌年に官を辞して書に生きる道を選びました。

【特徴】

鳴鶴ははじめ巻菱湖や貫名海屋の書風を学びましたが、明治13年(1880年)に来日した楊守敬と出会い、北魏の碑をはじめとする六朝の書に目を開かれました。のちには自ら清国へ渡り、各地の碑を訪ねて現地の文人とも交流しています。筆を立てて腕ごと大きく動かす廻腕法を用い、引き締まった楷書や行書を数多く残しました。

【見どころ】

滋賀県彦根市にある彦根城博物館は、彦根藩の政庁だった表御殿を復元した建物に、井伊家伝来の美術工芸品などを収めています。昭和63年(1988年)には図録『日下部鳴鶴 近代日本の書聖』を刊行しました。令和6年(2024年)には、晩年の鳴鶴が彦根の元藩医に宛てた書簡を新たに収蔵し、特集展示で紹介しています。展示の内容は時期によって替わるので、訪れる前に確かめてください。

【トリビア】

東京の青山霊園にある大久保利通の墓所には、その生涯を刻んだ大きな神道碑が立っており、この碑の文字を書いたのが鳴鶴です。かつて仕えた上司を書で弔った作品として知られます。門下からは比田井天来や近藤雪竹らが育ち、その流れは大正から昭和の書壇に大きな影響を与えました。中国の書家呉昌碩とも親しく、鳴鶴の墓誌銘は呉昌碩の筆と伝わります。

📅 最終更新: 2026/11/6
日下部鳴鶴
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です