明治13年(1880年)、清国の公使に随って来日した学者の楊守敬は、漢から六朝にかけての石碑の拓本を一万数千点も携えていました。これに触れて書風を大きく変えた日下部鳴鶴・巌谷一六と、長崎や北京で清の書を独自に学んだ中林梧竹の三人が、明治の三筆と呼ばれます。江戸時代までの和様や唐様とは違う、力強い碑の書を日本に根づかせた世代で、明治の三大家ともいわれます。平安時代の三筆や寛永の三筆とは別の名数です。
A.清の書に触れたことが転機になりました。日下部鳴鶴と巌谷一六は、明治13年(1880年)に来日した楊守敬から六朝の碑の書法を学びました。中林梧竹は長崎で清国人の余元眉に学んだのち、明治15年(1882年)に北京へ渡り、1年8か月にわたって研鑽を積んでいます。
A.日下部鳴鶴は鋭さと重みを兼ねた書風、巌谷一六は丸みのある線と穏やかな筆の運びによる親しみやすい書風で知られます。鳴鶴は筆を立てて腕ごと大きく動かす廻腕法を用い、引き締まった楷書や行書を数多く残しました。一六の書風は一六流と呼ばれ、楷書や行書の手本として多くの人に学ばれました。
A.いいえ、三人とも初めは別の書風から学び始めています。日下部鳴鶴は巻菱湖や貫名海屋の書風、巌谷一六は巻菱湖の流れをくむ書風、中林梧竹は江戸で山内香雪や市河米庵の流れをくむ書を学びました。そこから楊守敬や余元眉との出会いを経て、六朝の碑の書法を取り入れていきました。
A.明治の三筆は、明治時代に碑の書を日本に根づかせた日下部鳴鶴・巌谷一六・中林梧竹の三人を指し、平安時代の三筆や寛永の三筆とは別の名数です。三人は、江戸時代までの和様や唐様とは違う、漢から六朝にかけての石碑に学んだ力強い書を広めた世代で、明治の三大家ともいわれます。
A.日下部鳴鶴と巌谷一六のゆかりの地は滋賀県に、中林梧竹のゆかりの地は佐賀県にあります。鳴鶴の書簡を収める彦根城博物館のある彦根市と、巖谷一六・小波記念室を設けた水口歴史民俗資料館のある甲賀市は、直線距離で約40km離れています。中林梧竹記念館のある佐賀県小城市は、鳴鶴のゆかりの地から約600km、一六のゆかりの地から約580km離れています。