明治の三筆

明治の三筆

明治13年(1880年)、清国の公使に随って来日した学者の楊守敬は、漢から六朝にかけての石碑の拓本を一万数千点も携えていました。これに触れて書風を大きく変えた日下部鳴鶴・巌谷一六と、長崎や北京で清の書を独自に学んだ中林梧竹の三人が、明治の三筆と呼ばれます。江戸時代までの和様や唐様とは違う、力強い碑の書を日本に根づかせた世代で、明治の三大家ともいわれます。平安時代の三筆や寛永の三筆とは別の名数です。

日本名数>明治の三筆
日下部鳴鶴
🎭 文化🏯 歴史
📍 滋賀県 彦根市

日下部鳴鶴

(くさかべめいかく)

彦根藩士の家に生まれた日下部鳴鶴は、明治政府の太政官で大書記官まで務めたのち、明治12年(1879年)に官を辞して書の道に専念した人物です。翌年に来日した楊守敬から六朝の碑の書法を学び、鋭さと重みを兼ねた書風を築きました。全国に多くの門人を育てて近代日本の書聖とも称えられ、滋賀県彦根市にある彦根城博物館が鳴鶴の書簡を収蔵しています。

日下部鳴鶴の詳細を見る »
巌谷一六
🎭 文化🏯 歴史
📍 滋賀県 甲賀市

巌谷一六

(いわやいちろく)

政府の高官と書家という二つの顔をもつ巌谷一六は、天保5年(1834年)に近江国水口の藩医の家に生まれました。明治政府では内閣大書記官や元老院議官を務め、そのかたわら楊守敬から六朝の書法を学んで、柔らかく温かみのある独自の書風を築いています。童話作家の巌谷小波の父でもあり、滋賀県甲賀市にある水口歴史民俗資料館には、親子を紹介する記念室が設けられています。

巌谷一六の詳細を見る »
中林梧竹
🎭 文化🏯 歴史
📍 佐賀県 小城市

中林梧竹

(なかばやしごちく)

佐賀県小城市にある中林梧竹記念館が顕彰する中林梧竹は、文政10年(1827年)に小城藩士の家に生まれた書家です。廃藩置県を機に書に専念し、長崎で清国人の余元眉に学んだのち、56歳で北京に渡って本場の書法を吸収しました。漢魏六朝の碑から得た古風な筆づかいに、奔放で変化に富んだ造形を重ねた書風は、三人のなかでも際立って個性的だといわれます。

中林梧竹の詳細を見る »

❓ 明治の三筆のよくある質問

Q.明治の三筆は、どのようにして新しい書風を身につけたのですか?

A.清の書に触れたことが転機になりました。日下部鳴鶴と巌谷一六は、明治13年(1880年)に来日した楊守敬から六朝の碑の書法を学びました。中林梧竹は長崎で清国人の余元眉に学んだのち、明治15年(1882年)に北京へ渡り、1年8か月にわたって研鑽を積んでいます。

Q.日下部鳴鶴と巌谷一六の書風はどう違いますか?

A.日下部鳴鶴は鋭さと重みを兼ねた書風、巌谷一六は丸みのある線と穏やかな筆の運びによる親しみやすい書風で知られます。鳴鶴は筆を立てて腕ごと大きく動かす廻腕法を用い、引き締まった楷書や行書を数多く残しました。一六の書風は一六流と呼ばれ、楷書や行書の手本として多くの人に学ばれました。

Q.明治の三筆は、はじめから六朝の書を学んでいたのですか?

A.いいえ、三人とも初めは別の書風から学び始めています。日下部鳴鶴は巻菱湖や貫名海屋の書風、巌谷一六は巻菱湖の流れをくむ書風、中林梧竹は江戸で山内香雪や市河米庵の流れをくむ書を学びました。そこから楊守敬や余元眉との出会いを経て、六朝の碑の書法を取り入れていきました。

Q.明治の三筆は、平安時代の三筆や寛永の三筆とどう違いますか?

A.明治の三筆は、明治時代に碑の書を日本に根づかせた日下部鳴鶴・巌谷一六・中林梧竹の三人を指し、平安時代の三筆や寛永の三筆とは別の名数です。三人は、江戸時代までの和様や唐様とは違う、漢から六朝にかけての石碑に学んだ力強い書を広めた世代で、明治の三大家ともいわれます。

Q.明治の三筆ゆかりの地は一度に訪ねられますか?

A.日下部鳴鶴と巌谷一六のゆかりの地は滋賀県に、中林梧竹のゆかりの地は佐賀県にあります。鳴鶴の書簡を収める彦根城博物館のある彦根市と、巖谷一六・小波記念室を設けた水口歴史民俗資料館のある甲賀市は、直線距離で約40km離れています。中林梧竹記念館のある佐賀県小城市は、鳴鶴のゆかりの地から約600km、一六のゆかりの地から約580km離れています。

📍 所在地マップ

愛媛県岡山県京都府熊本県広島県高知県三重県山口県大分県鳥取県島根県徳島県奈良県福井県兵庫県和歌山県132日下部鳴鶴中林梧竹巌谷一六100 km地図データ: Natural Earth
  1. 1日下部鳴鶴Google マップ
  2. 2中林梧竹Google マップ
  3. 3巌谷一六Google マップ