【概要】
生駒親正は1526年に美濃で生まれたとされる武将で、織田信長のもとで秀吉の配下となり、各地の合戦で働きました。1587年に讃岐一国を与えられ、翌年から海辺に高松城を築いて城下町の基礎を開いています。後世には三中老の一人に数えられますが、その職制は同時代の史料では確かめにくいとされます。関ヶ原では父子が東西に分かれ、家名を保ちました。
【歴史】
生駒親正は美濃の土豪の家に生まれ、織田信長に仕えたのち秀吉の与力となりました。各地の合戦に加わって少しずつ領地を広げ、九州攻めのあとの1587年に讃岐一国を与えられます。1600年の関ヶ原では、親正が西軍に味方して家臣を送った一方、子の一正は東軍に加わりました。戦後、親正は出家して隠居し、讃岐の領地は一正に引き継がれています。
【特徴】
生駒親正は、派手な武功よりも長く着実に働いた古参の家臣として秀吉に重んじられた人物です。後世の書物では、五大老と五奉行の意見が対立したときに間に入る三中老の一人とされてきました。ただ、同時代の文書にそうした役職名ははっきり見えず、江戸時代以降に整えられた呼び名とする見方が有力です。讃岐を治めた大名だったことは確かな事実です。
【見どころ】
生駒親正が1588年から築いた高松城の跡は、香川県高松市にある玉藻公園として公開されています。瀬戸内海の海水を堀に引き入れた水城で、堀には海の魚が泳ぎ、和船で内堀を巡る遊覧も行われています。天守は明治に取り壊されましたが、天守台の石垣が積み直され、後の松平家の時代に建てられた月見櫓などの櫓が海辺の城の姿を伝えています。
【トリビア】
高松という地名は、生駒親正がこの地に城を築いた際、近くの高松の郷の名を取って名づけたものと伝えられています。高松城は玉藻城とも呼ばれ、これは万葉集で柿本人麻呂が讃岐の国にかけて詠んだ「玉藻よし」の言葉にちなむとされます。生駒家はその後四代にわたって讃岐を治めましたが、1640年に家中の争いがもとで出羽へ移されました。
