三中老

三中老

三中老は、豊臣秀吉の晩年に五大老と五奉行の間を取り持つ調停役として置かれたと伝わる生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏の三人です。ただし同時代の確かな史料には「三中老」という名の役職が見えず、江戸時代以降の軍記や系譜などで広まった後世の呼び名、あるいは創作とする見方が有力です。三人がいずれも秀吉に早くから仕えた古参の大名で、讃岐・浜松・駿府などを治めたことは確かです。

日本名数>三中老
中村一氏
🏯 歴史
📍 静岡県 静岡市葵区

中村一氏

(なかむらかずうじ)

中村一氏は近江の出身とされる武将で、生年ははっきりしていません。秀吉に仕えて紀州の勢力に備えた和泉の岸和田城や、近江の水口岡山城を任され、1590年の小田原攻めののちは駿河一国を与えられて駿府城に入りました。後世には三中老の一人とされますが、その職制は同時代の史料では確かめにくいとされます。関ヶ原の直前に病で世を去りました。

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堀尾吉晴
🏯 歴史
📍 島根県 松江市

堀尾吉晴

(ほりおよしはる)

堀尾吉晴は1543年に尾張で生まれ、若いころから秀吉に仕えて各地を転戦した武将です。穏やかな人柄から仏の茂助と呼ばれたと伝わり、1590年に遠江の浜松城主となりました。関ヶ原ののちは子の忠氏とともに出雲・隠岐に移り、松江城と城下町を築いています。後世には三中老の一人とされますが、その職制は同時代の史料では確かめにくいとされます。

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生駒親正
🏯 歴史
📍 香川県 高松市

生駒親正

(いこまちかまさ)

生駒親正は1526年に美濃で生まれたとされる武将で、織田信長のもとで秀吉の配下となり、各地の合戦で働きました。1587年に讃岐一国を与えられ、翌年から海辺に高松城を築いて城下町の基礎を開いています。後世には三中老の一人に数えられますが、その職制は同時代の史料では確かめにくいとされます。関ヶ原では父子が東西に分かれ、家名を保ちました。

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❓ 三中老のよくある質問

Q.三中老は豊臣秀吉が置いた正式な役職だったのですか?

A.正式な役職だったとは確かめられていません。同時代の確かな史料には「三中老」という名の役職が見えず、江戸時代以降の軍記や系譜などで広まった後世の呼び名、あるいは創作とする見方が有力です。後世の書物では、五大老と五奉行の意見が対立したときに間に入る調停役とされてきました。

Q.三中老に数えられる三人にはどんな共通点がありますか?

A.生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏は、いずれも秀吉に早くから仕えた古参の大名です。生駒親正は讃岐一国を与えられて高松城を築き、堀尾吉晴は遠江の浜松城主、中村一氏は駿河一国を与えられて駿府城主となりました。三人が三中老という役に就いていたかは確かめにくい一方で、これらの国や城を治めたことは確かです。

Q.三中老とされる三人は関ヶ原の戦いでどうしていたのですか?

A.三人とも、子が東軍に加わりました。生駒親正は西軍に味方して家臣を送り、子の一正が東軍に加わっています。堀尾吉晴は直前に池鯉鮒の酒宴での刃傷沙汰で傷を負い、子の忠氏が東軍として本戦に加わりました。中村一氏は直前に病で没し、子の一忠が東軍に加わりました。

Q.三中老の一人とされる堀尾吉晴が築いた松江城の天守はいつ完成したのですか?

A.松江城の天守は1611年の完成が裏付けられています。築かれた年がはっきりしないことが長く課題でしたが、慶長16年の年号が入った祈祷札が見つかりました。これが決め手の一つとなって、2015年に天守が国宝に指定されています。堀尾吉晴は完成の年に世を去り、天守の姿を見届けたかどうかは定かではありません。

Q.三中老とされる三人ゆかりの城はどこにあり、どのくらい離れていますか?

A.生駒親正の高松城跡は香川県高松市の玉藻公園、堀尾吉晴の松江城は島根県松江市、中村一氏の駿府城跡は静岡県静岡市葵区の駿府城公園にあります。直線距離では高松市と松江市が約150km、高松市と静岡市葵区が約400km、松江市と静岡市葵区が約490km離れています。

📍 所在地マップ

愛知県愛媛県岐阜県京都府広島県高知県三重県山梨県滋賀県石川県長野県鳥取県徳島県奈良県富山県福井県兵庫県和歌山県231生駒親正中村一氏100 km地図データ: Natural Earth
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