三中老は、豊臣秀吉の晩年に五大老と五奉行の間を取り持つ調停役として置かれたと伝わる生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏の三人です。ただし同時代の確かな史料には「三中老」という名の役職が見えず、江戸時代以降の軍記や系譜などで広まった後世の呼び名、あるいは創作とする見方が有力です。三人がいずれも秀吉に早くから仕えた古参の大名で、讃岐・浜松・駿府などを治めたことは確かです。
A.正式な役職だったとは確かめられていません。同時代の確かな史料には「三中老」という名の役職が見えず、江戸時代以降の軍記や系譜などで広まった後世の呼び名、あるいは創作とする見方が有力です。後世の書物では、五大老と五奉行の意見が対立したときに間に入る調停役とされてきました。
A.生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏は、いずれも秀吉に早くから仕えた古参の大名です。生駒親正は讃岐一国を与えられて高松城を築き、堀尾吉晴は遠江の浜松城主、中村一氏は駿河一国を与えられて駿府城主となりました。三人が三中老という役に就いていたかは確かめにくい一方で、これらの国や城を治めたことは確かです。
A.三人とも、子が東軍に加わりました。生駒親正は西軍に味方して家臣を送り、子の一正が東軍に加わっています。堀尾吉晴は直前に池鯉鮒の酒宴での刃傷沙汰で傷を負い、子の忠氏が東軍として本戦に加わりました。中村一氏は直前に病で没し、子の一忠が東軍に加わりました。
A.松江城の天守は1611年の完成が裏付けられています。築かれた年がはっきりしないことが長く課題でしたが、慶長16年の年号が入った祈祷札が見つかりました。これが決め手の一つとなって、2015年に天守が国宝に指定されています。堀尾吉晴は完成の年に世を去り、天守の姿を見届けたかどうかは定かではありません。
A.生駒親正の高松城跡は香川県高松市の玉藻公園、堀尾吉晴の松江城は島根県松江市、中村一氏の駿府城跡は静岡県静岡市葵区の駿府城公園にあります。直線距離では高松市と松江市が約150km、高松市と静岡市葵区が約400km、松江市と静岡市葵区が約490km離れています。