【概要】
市河米庵は、安永8年(1779年)に漢詩人の市河寛斎の長男として江戸に生まれた書家です。宋の書家の米芾を慕って米庵と号し、寛政11年(1799年)に書塾の小山林堂を開くと、門人は延べ5千人に達したと伝えられます。富山藩や加賀藩前田家に仕え、諸大名にも書を教えました。安政5年(1858年)に亡くなり、東京都荒川区西日暮里の本行寺に父とともに眠っています。
【歴史】
市河米庵の父の寛斎は、上野国に生まれて江戸で江湖詩社を開いた漢詩人で、のちに富山藩の藩校広徳館で祭酒を務めました。米庵は寛政11年(1799年)、20歳のころに江戸で書塾の小山林堂を開き、文化8年(1811年)には家督を継いで富山藩に仕えています。文政4年(1821年)には加賀藩前田家に召し抱えられ、江戸と金沢を行き来して書を指導しました。
【特徴】
市河米庵の書は、宋の米芾や唐の顔真卿を手本とした唐様で、太くたっぷりとした線で書かれた楷書や行書が持ち味です。号の米庵も、米芾を慕って名乗ったものと伝わります。小山林堂には武士から町人まで多くの人が通い、尾張藩や筑前福岡藩などの大名家にも書を授けました。中国の書画や文房具の収集家としても知られ、米庵墨談などの著書も残しています。
【見どころ】
東京都荒川区西日暮里にある本行寺は、日蓮宗の寺院で、JR日暮里駅から歩いてすぐの高台に建っています。境内の墓地には市河寛斎・米庵父子の墓があり、東京都の旧跡に指定されています。幕臣の永井尚志の墓もこの寺にあります。江戸時代には月見寺と呼ばれ、花見寺の青雲寺、雪見寺の浄光寺とともに行楽の地としてにぎわい、いまも谷中から続く寺町散策の道筋に入っています。
【トリビア】
幕末の三筆の三人は、巻菱湖が安永6年(1777年)、貫名菘翁が安永7年(1778年)、市河米庵が安永8年(1779年)と一年ずつずれて生まれており、米庵は三人のなかで最も年下です。米庵が亡くなった安政5年(1858年)は日米修好通商条約が結ばれた年にあたり、米庵と菘翁の晩年は開国へ向かう幕末の動乱期と重なっています。
