江戸時代の後期には、中国の書法にならう唐様の書が武士や町人のあいだで流行しました。その担い手として名高いのが、江戸の市河米庵、越後出身の巻菱湖、阿波出身で京都に住んだ貫名菘翁(海屋)の三人で、幕末の三筆と呼ばれます。三人は1777年から1779年にかけて続けて生まれ、米庵と菱湖は江戸で多くの門人を集め、菘翁は京都で古典に根ざした格調の高い書を残しました。平安時代の三筆や寛永の三筆とは別の名数です。
A.最も年上なのは巻菱湖です。三人は一年ずつずれて生まれ、巻菱湖が安永6年(1777年)、貫名菘翁が安永7年(1778年)、市河米庵が安永8年(1779年)の生まれです。亡くなったのは菱湖が天保14年(1843年)、米庵が安政5年(1858年)、菘翁が文久3年(1863年)で、菘翁は三人のなかで最も長生きしました。
A.同じ人物です。貫名菘翁ははじめ海屋と号し、菘翁は年を重ねてから用いた号です。若いころの海屋の名で呼ばれることも多く、本によっては幕末の三筆を市河米庵・巻菱湖・貫名海屋と書いています。阿波徳島藩士の吉井家に生まれ、27歳のときに本姓の貫名を名乗りました。
A.三人とも中国の古典を手本にしましたが、学んだ書と線の趣が異なります。市河米庵は宋の米芾や唐の顔真卿を手本に、太くたっぷりとした線の唐様を書きました。巻菱湖は晋や唐の書を学び、整った字形と柔らかくしなやかな線で菱湖流と呼ばれました。貫名菘翁は飾り気を抑えた端正で格調の高い書風で、京都の文人らしい落ち着きをたたえていると評されます。
A.巻菱湖自身が駒を書いたわけではありません。菱湖書は将棋の駒に書かれる文字の代表的な書体のひとつで、駒師の高濱禎が菱湖の手本をもとに駒の字を作った経緯が伝わっています。細身で流れるような字形が特徴で、いまも高級な盛り上げ駒の書体として人気が高いです。
A.三人のゆかりの地は東京都・新潟県・京都府に分かれています。市河米庵は東京都荒川区西日暮里の本行寺に父とともに眠り、巻菱湖は新潟県新潟市西蒲区にあたる巻の生まれ、貫名菘翁は京都府京都市東山区の高台寺に葬られました。直線距離では本行寺と巻が約240km、本行寺と高台寺が約370km、巻と高台寺が約410km離れています。