【概要】
伊達成実は、永禄11年(1568年)に伊達実元の子として生まれた政宗の従弟で、伊達軍随一の勇将とうたわれた武将です。若くして人取橋の戦いで踏みとどまって軍を支え、摺上原の戦いでも勝利に大きく貢献しました。一時は伊達家を離れましたが、のちに帰参し、慶長7年(1602年)に亘理を与えられて亘理伊達家の祖となりました。
【歴史】
伊達成実は、信夫郡の大森城主だった伊達実元の子として育ち、母は政宗の父輝宗の妹にあたります。天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、数で勝る連合軍を前に十八歳で奮戦し、崩れかけた伊達軍を支えました。その後は二本松城を任され、天正17年(1589年)の摺上原の戦いでも活躍します。文禄年間に一度は出奔しましたが、のちに帰参して再び政宗に仕えました。
【特徴】
伊達成実は、退くことを知らない猛将として語られます。兜の前立てに毛虫をかたどった飾りを用いたのは、毛虫が前にしか進まないことにちなむと伝えられます。一方で筆も立ち、政宗の戦いぶりを記した『成実記』(伊達日記)の著者とされ、伊達家の歴史を知るうえで欠かせない記録を残しました。秀吉への服従をめぐっては、徹底して戦うべきだと主張したという逸話もあります。
【見どころ】
宮城県亘理町にある亘理神社は、成実が城主となって改修した亘理城、のちの亘理要害の跡に建っています。明治12年(1879年)に町の人々が成実を祭神として祀ったのが始まりで、境内のまわりには内堀の跡が残り、城の面影をしのぶことができます。近くの大雄寺は亘理伊達家の菩提寺で、成実をはじめ歴代当主の墓所が静かな杉木立のなかに並んでいます。
【トリビア】
成実は正保3年(1646年)まで生き、政宗の死後も亘理の領主として町の基礎を固めました。成実を祖とする亘理伊達家は、明治維新ののち当主の伊達邦成が家臣団を率いて北海道へ移り住み、その開拓地はのちに伊達市という名で呼ばれるようになりました。また亘理駅は、城の天守を思わせる外観の郷土資料館と駅舎が一体になった建物で、亘理伊達家ゆかりの品々を伝えています。
