文化の大火

(ぶんかのたいか)
📍 関東東京都 港区🏯 歴史

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【概要】

文化の大火は、文化三年にあたる1806年の旧暦3月4日に、芝の車町から出た火が江戸の中心部を焼いた大火です。この年の干支から丙寅の大火、火元の町名から車町火事や牛町火事とも呼ばれます。車町は東海道沿いの泉岳寺の近く、現在の東京都港区高輪二丁目のあたりにありました。南からの強風で火は京橋、日本橋から神田、浅草へと広がり、死者は千二百人を超えたとされます。

【歴史】

文化の大火は、3月4日の午前、車町の材木座のあたりから出火したと伝えられます。折からの激しい南風にあおられた火は、東海道沿いに北へ進んで芝の薩摩藩上屋敷や増上寺の五重塔を焼き、さらに木挽町や数寄屋橋へと飛び火しました。京橋と日本橋の大半を焼き尽くしたのち、火の手は神田、浅草にまで達し、翌日に降った雨でようやく鎮まったとされます。

【特徴】

文化の大火で焼けた町は530町、焼失した家屋は12万戸余りに及んだといわれ、死者は千二百人を超えたとされます。数字は資料によって異なりますが、商人の町である京橋や日本橋の大半が焼けたことで、江戸の経済にも大きな打撃を与えました。幕府は焼け出された人々のために御救小屋を建てて寝る場所と食事を与え、多くの人がそこで急場をしのいだと伝えられます。

【見どころ】

火元の車町があった高輪二丁目のあたりは、いまは第一京浜が通る都心の街並みですが、旧東海道の道筋をたどることができます。北へ少し歩くと、江戸の南の出入口だった高輪大木戸の石垣が国の史跡として残り、南には赤穂浪士の墓所で知られる泉岳寺があります。車町は泉岳寺の門前に近い町で、街道を行き交う旅人や荷車でにぎわっていました。

【トリビア】

車町という町名は、寛永年間に増上寺の霊廟などを造営する際、巨石や木材を運ぶため京都から牛持人足を呼び寄せ、この地に住まわせたことに始まるとされます。最盛期には千頭を超える牛がいたといわれ、人々は俗に牛町と呼びました。歌川広重も名所江戸百景に「高輪うしまち」を描き、海辺に置かれた牛車の大きな車輪を画面いっぱいに写しています。

📅 最終更新: 2026/11/3
文化の大火
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です