江戸三大大火

江戸三大大火

江戸三大大火は、江戸の町をたびたび襲った火事のなかでも、とりわけ被害の大きかった明暦の大火(1657年)、明和の大火(1772年)、文化の大火(1806年)の三つを指します。火元はそれぞれ本郷の本妙寺、目黒行人坂の大円寺、芝の車町とされ、いずれも強い風にあおられて市街の広い範囲を焼きました。明和の大火は目黒行人坂の大火、文化の大火は丙寅の大火や車町火事とも呼ばれます。東京消防庁などもこの三つを挙げており顔ぶれはほぼ定まっていますが、死者の数などは資料によって大きく異なります。

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明暦の大火
🏯 歴史
📍 東京都 文京区

明暦の大火

(めいれきのたいか)

明暦の大火は、明暦三年にあたる1657年の旧暦1月18日から翌日にかけて江戸を襲った大火で、江戸三大大火の筆頭に数えられます。最初の火元は本郷丸山の本妙寺とされ、現在の東京都文京区本郷五丁目のあたりにあたります。翌日には小石川と麹町からも火が出て、江戸城の天守までが焼け落ちました。俗に振袖火事とも呼ばれ、死者は三万人から十万人余りまで諸説あります。

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明和の大火
🏯 歴史
📍 東京都 目黒区

明和の大火

(めいわのたいか)

明和の大火は、明和九年にあたる1772年の旧暦2月29日に、目黒行人坂の大円寺から出た火が江戸の中心部を焼いた大火で、目黒行人坂の大火とも呼ばれます。火元の大円寺は東京都目黒区下目黒一丁目にあり、JR目黒駅から行人坂を下った途中に建っています。南西の強風に乗った火は麻布や芝から日本橋、神田、浅草方面へと燃え広がり、死者は一万四千七百人と伝えられます。

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文化の大火
🏯 歴史
📍 東京都 港区

文化の大火

(ぶんかのたいか)

文化の大火は、文化三年にあたる1806年の旧暦3月4日に、芝の車町から出た火が江戸の中心部を焼いた大火です。この年の干支から丙寅の大火、火元の町名から車町火事や牛町火事とも呼ばれます。車町は東海道沿いの泉岳寺の近く、現在の東京都港区高輪二丁目のあたりにありました。南からの強風で火は京橋、日本橋から神田、浅草へと広がり、死者は千二百人を超えたとされます。

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❓ 江戸三大大火のよくある質問

Q.江戸三大大火の火元はどこで、互いにどのくらい離れていますか?

A.火元は、明暦の大火が本郷丸山の本妙寺、明和の大火が目黒行人坂の大円寺、文化の大火が芝の車町とされます。いまの東京都文京区本郷五丁目、目黒区下目黒一丁目、港区高輪二丁目のあたりです。直線距離では本郷から目黒が約9km、本郷から高輪が約8km、目黒と高輪は約3kmです。

Q.江戸三大大火にはそれぞれどんな別名がありますか?

A.明暦の大火は振袖火事、明和の大火は目黒行人坂の大火、文化の大火は丙寅の大火や車町火事、牛町火事とも呼ばれます。振袖火事の名は、供養のために焼いた振袖が舞い上がって本堂に燃え移ったという言い伝えに由来しますが、この話は後世の創作とされます。丙寅は文化の大火が起きた年の干支です。

Q.江戸三大大火の死者の数はどのくらいでしたか?

A.死者の数は資料によって大きく異なります。明暦の大火は三万人から十万人余りまで諸説あり、明和の大火は一万四千七百人と伝えられ、文化の大火は千二百人を超えたとされます。いずれも強い風にあおられて市街の広い範囲を焼き、明暦の大火の被害は江戸の町の六割以上に及んだとされます。

Q.明暦の大火のあと、江戸城の天守はどうなりましたか?

A.明暦の大火で焼け落ちた江戸城の天守は、その後再建されませんでした。再建も計画されましたが、会津藩主の保科正之が、天守は戦の役に立たず町の復興を優先すべきだと説いたとされ、以後江戸城に天守が建つことはありませんでした。

Q.江戸三大大火の犠牲者を弔う場所はありますか?

A.あります。明暦の大火では身元の分からない多くの犠牲者が隅田川の東の本所に葬られ、これがのちの回向院の始まりになりました。火元とされる本妙寺の境内にも犠牲者を弔う供養塔が立ちます。明和の大火の火元の大円寺には、犠牲者を弔うためにつくられたとされる五百羅漢をはじめ、多くの石仏が斜面に並んでいます。

📍 所在地マップ

茨城県埼玉県山梨県神奈川県静岡県千葉県東京都栃木県132明暦の大火明和の大火50 km地図データ: Natural Earth
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