江戸三大大火は、江戸の町をたびたび襲った火事のなかでも、とりわけ被害の大きかった明暦の大火(1657年)、明和の大火(1772年)、文化の大火(1806年)の三つを指します。火元はそれぞれ本郷の本妙寺、目黒行人坂の大円寺、芝の車町とされ、いずれも強い風にあおられて市街の広い範囲を焼きました。明和の大火は目黒行人坂の大火、文化の大火は丙寅の大火や車町火事とも呼ばれます。東京消防庁などもこの三つを挙げており顔ぶれはほぼ定まっていますが、死者の数などは資料によって大きく異なります。
A.火元は、明暦の大火が本郷丸山の本妙寺、明和の大火が目黒行人坂の大円寺、文化の大火が芝の車町とされます。いまの東京都文京区本郷五丁目、目黒区下目黒一丁目、港区高輪二丁目のあたりです。直線距離では本郷から目黒が約9km、本郷から高輪が約8km、目黒と高輪は約3kmです。
A.明暦の大火は振袖火事、明和の大火は目黒行人坂の大火、文化の大火は丙寅の大火や車町火事、牛町火事とも呼ばれます。振袖火事の名は、供養のために焼いた振袖が舞い上がって本堂に燃え移ったという言い伝えに由来しますが、この話は後世の創作とされます。丙寅は文化の大火が起きた年の干支です。
A.死者の数は資料によって大きく異なります。明暦の大火は三万人から十万人余りまで諸説あり、明和の大火は一万四千七百人と伝えられ、文化の大火は千二百人を超えたとされます。いずれも強い風にあおられて市街の広い範囲を焼き、明暦の大火の被害は江戸の町の六割以上に及んだとされます。
A.明暦の大火で焼け落ちた江戸城の天守は、その後再建されませんでした。再建も計画されましたが、会津藩主の保科正之が、天守は戦の役に立たず町の復興を優先すべきだと説いたとされ、以後江戸城に天守が建つことはありませんでした。
A.あります。明暦の大火では身元の分からない多くの犠牲者が隅田川の東の本所に葬られ、これがのちの回向院の始まりになりました。火元とされる本妙寺の境内にも犠牲者を弔う供養塔が立ちます。明和の大火の火元の大円寺には、犠牲者を弔うためにつくられたとされる五百羅漢をはじめ、多くの石仏が斜面に並んでいます。