黄檗の三筆

黄檗の三筆

江戸時代の前期、明から海を渡ってきた黄檗宗の禅僧のうち、書の名手として名高い隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一の三人を黄檗の三筆と呼びます。師の隠元と二人の高弟による大陸風の力強い墨蹟は、平安時代以来の和様の書に親しんでいた人々に新鮮な驚きを与え、のちの唐様の書の流行にもつながったとされます。平安時代初めの三筆や、江戸時代初めの寛永の三筆とは別の名数です。

日本名数>黄檗の三筆
木庵性瑫
🎭 文化🏯 歴史
📍 東京都 港区

木庵性瑫

(もくあんしょうとう)

木庵性瑫は、師の隠元隆琦の後を継いで宇治の萬福寺の第二代住持となった明の禅僧です。江戸では東京都港区にある瑞聖寺の開山となり、黄檗宗を江戸と東国へ広める足がかりを築きました。端正さと勢いをあわせ持つ書は、隠元・即非と並んで黄檗の三筆に数えられ、宇治の萬福寺をはじめ各地の寺院に扁額や聯が伝わっています。

木庵性瑫の詳細を見る »
隠元隆琦
🎭 文化🏯 歴史
📍 京都府 宇治市

隠元隆琦

(いんげんりゅうき)

承応3年(1654年)に明の福建省から長崎へ渡ってきた禅僧が隠元隆琦です。京都府宇治市にある黄檗山萬福寺を開いて日本の黄檗宗の祖となり、大らかで力強い書は、弟子の木庵性瑫・即非如一とともに黄檗の三筆として尊ばれています。インゲンマメや普茶料理を伝えた人物としても、その名は今も日々の暮らしの中に残っています。

隠元隆琦の詳細を見る »
即非如一
🎭 文化🏯 歴史
📍 福岡県 北九州市小倉北区

即非如一

(そくひにょいつ)

長崎の崇福寺の門に掛かる「第一峰」の三文字を書いたのが、明から来た禅僧の即非如一です。隠元隆琦の高弟として明暦3年(1657年)に来日し、のちに小倉藩主の小笠原忠真に招かれて、福岡県北九州市小倉北区にある広寿山福聚寺を開きました。奔放で気迫に満ちた書は、黄檗の三筆のなかでもとりわけ人気が高いといわれます。

即非如一の詳細を見る »

❓ 黄檗の三筆のよくある質問

Q.黄檗の三筆の三人はどんな関係ですか?

A.隠元隆琦が師で、木庵性瑫と即非如一はその高弟です。隠元は承応3年(1654年)に明から長崎へ渡り、木庵は翌年の明暦元年(1655年)に長崎へ来て、即非は師の招きに応じて明暦3年(1657年)に来日しました。木庵は寛文4年(1664年)に隠元から宇治の萬福寺の住持を譲られて第二代となり、即非は萬福寺で首座を務めています。

Q.黄檗の三筆の書には、それぞれどんな特徴がありますか?

A.隠元隆琦は太い筆を大きく運ぶ堂々とした行書や草書、木庵性瑫は師の大らかさを受け継ぎながら線の引き締まった格調の高さ、即非如一は筆を紙に叩きつけるような勢いと墨の濃淡の大きな振れ幅が持ち味です。即非の書は三筆のなかで最も奔放と評され、黄檗の三筆のなかでもとりわけ人気が高いといわれます。

Q.黄檗の三筆の書を、寺の額で見ることはできますか?

A.宇治の萬福寺や長崎の崇福寺で、三人の筆による額を見られます。萬福寺の三門の「黄檗山」「萬福寺」は隠元隆琦が生前に書いた字を没後に掲げたもので、大雄宝殿の上層の「大雄寶殿」は隠元の筆と伝わり、下層の「萬徳尊」は木庵性瑫の筆です。崇福寺の国宝の第一峰門には、即非如一が書いた「第一峰」の額が掲げられています。

Q.黄檗の三筆は、平安時代の三筆や寛永の三筆とどう違いますか?

A.黄檗の三筆は、江戸時代の前期に明から渡ってきた黄檗宗の禅僧の隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一を指し、平安時代初めの三筆や江戸時代初めの寛永の三筆とは別の名数です。三人の大陸風の力強い墨蹟は、平安時代以来の和様の書に親しんでいた人々に新鮮な驚きを与え、のちの唐様の書の流行にもつながったとされます。

Q.黄檗の三筆ゆかりの寺を巡ることはできますか?

A.三人が開いた寺は京都府・東京都・福岡県に分かれています。隠元隆琦が開いた宇治市の萬福寺、木庵性瑫が開山となった港区の瑞聖寺、即非如一が開いた北九州市小倉北区の福聚寺は、直線距離で萬福寺と瑞聖寺が約360km、萬福寺と福聚寺が約460km、瑞聖寺と福聚寺が約830km離れています。

📍 所在地マップ

岡山県岐阜県熊本県群馬県広島県高知県新潟県静岡県大分県島根県栃木県福島県兵庫県213隠元隆琦木庵性瑫即非如一100 km地図データ: Natural Earth
  1. 1隠元隆琦Google マップ
  2. 2木庵性瑫Google マップ
  3. 3即非如一Google マップ