寛永の三筆は、桃山時代から江戸時代の初めにかけて書の名手として並び称された本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗の三人を指します。三人は平安時代の古筆を手本にしながら、それぞれ個性豊かな書風を開きました。寛永の名は後世に付けられた呼び名で、信尹は寛永より前の慶長19年(1614年)に亡くなっています。平安時代初めの空海・嵯峨天皇・橘逸勢を指す三筆とは別の名数です。
A.寛永の名は後世に付けられた呼び名で、三人がそろって寛永の時代に活躍したわけではありません。近衛信尹は寛永より前の慶長19年(1614年)に亡くなっています。三人は桃山時代から江戸時代の初めにかけて書の名手として並び称され、本阿弥光悦は寛永14年(1637年)、松花堂昭乗は寛永16年(1639年)に亡くなりました。
A.寛永の三筆は桃山時代から江戸時代の初めにかけての本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗を指し、平安時代初めの空海・嵯峨天皇・橘逸勢を指す三筆とは別の名数です。寛永の三筆の三人は、平安時代の古筆を手本にしながら、それぞれ個性豊かな書風を開きました。
A.本阿弥光悦は肉太の線と細い線を大胆に対比させた装飾的な書風、近衛信尹は紙面いっぱいに文字を配する太く伸びやかな三藐院流、松花堂昭乗は和様を基調とした柔らかく品のある松花堂流で知られます。信尹の書風は江戸時代の公家や武家に広く学ばれ、昭乗の書も江戸時代を通じて手本として親しまれました。
A.本阿弥光悦は蒔絵や楽焼の茶碗、版本の制作にも才能を発揮し、国宝の舟橋蒔絵硯箱や白楽茶碗「不二山」を残しました。近衛信尹は自ら描いた渡唐天神像に賛を添えた作品を多く伝え、書と絵の両方に才能を示しました。松花堂昭乗は水墨画や茶の湯にも通じ、料亭の松花堂弁当は昭乗にちなんで名づけられたものです。
A.三人のゆかりの地は、いずれも京都府にあります。本阿弥光悦の屋敷跡に営まれた光悦寺は京都市北区、近衛信尹の近衛家の屋敷が置かれた近衛邸跡は京都市上京区の京都御苑の北側、松花堂昭乗の草庵を移した松花堂庭園は八幡市です。直線距離では光悦寺と近衛邸跡が約4km、松花堂庭園は光悦寺から約20km、近衛邸跡から約19km離れています。