寛永の三筆

寛永の三筆

寛永の三筆は、桃山時代から江戸時代の初めにかけて書の名手として並び称された本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗の三人を指します。三人は平安時代の古筆を手本にしながら、それぞれ個性豊かな書風を開きました。寛永の名は後世に付けられた呼び名で、信尹は寛永より前の慶長19年(1614年)に亡くなっています。平安時代初めの空海・嵯峨天皇・橘逸勢を指す三筆とは別の名数です。

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本阿弥光悦
🎭 文化🏯 歴史
📍 京都府 京都市北区

本阿弥光悦

(ほんあみこうえつ)

本阿弥光悦は、永禄元年(1558年)に刀剣の鑑定や研ぎを家業とする京都の本阿弥家に生まれた芸術家です。書のほか蒔絵や楽焼の茶碗、版本の制作にまで才能を発揮し、国宝の舟橋蒔絵硯箱や白楽茶碗「不二山」を残しました。晩年は徳川家康から与えられた洛北の鷹峯に一族や職人と移り住み、その屋敷跡が現在の光悦寺になっています。

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近衛信尹
🎭 文化🏯 歴史
📍 京都府 京都市上京区

近衛信尹

(このえのぶただ)

近衛信尹は、永禄8年(1565年)に関白近衛前久の子として生まれた公家で、五摂家の筆頭である近衛家を継ぎ、のちに関白に就きました。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に渡海を望んだことが咎められ、薩摩へ流された経歴の持ち主でもあります。書では太く豪快な三藐院流を開き、晩年の号から三藐院の名で親しまれました。京都御苑の北側には近衛家の屋敷跡が残っています。

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松花堂昭乗
🎭 文化🏯 歴史
📍 京都府 八幡市

松花堂昭乗

(しょうかどうしょうじょう)

松花堂昭乗は、天正12年(1584年)ごろに生まれた石清水八幡宮の社僧で、男山の瀧本坊の住職を務めました。書は大師流を深く学んで松花堂流と呼ばれる柔らかな書風を築き、絵や茶の湯にも通じた文化人として知られます。晩年に営んだ草庵の松花堂は明治時代に男山から現在の地へ移され、京都府八幡市の松花堂庭園で庭とともに守られています。

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❓ 寛永の三筆のよくある質問

Q.寛永の三筆は、三人とも寛永の時代に活躍したのですか?

A.寛永の名は後世に付けられた呼び名で、三人がそろって寛永の時代に活躍したわけではありません。近衛信尹は寛永より前の慶長19年(1614年)に亡くなっています。三人は桃山時代から江戸時代の初めにかけて書の名手として並び称され、本阿弥光悦は寛永14年(1637年)、松花堂昭乗は寛永16年(1639年)に亡くなりました。

Q.寛永の三筆と平安時代の三筆はどう違いますか?

A.寛永の三筆は桃山時代から江戸時代の初めにかけての本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗を指し、平安時代初めの空海・嵯峨天皇・橘逸勢を指す三筆とは別の名数です。寛永の三筆の三人は、平安時代の古筆を手本にしながら、それぞれ個性豊かな書風を開きました。

Q.寛永の三筆の三人は、それぞれどんな書風ですか?

A.本阿弥光悦は肉太の線と細い線を大胆に対比させた装飾的な書風、近衛信尹は紙面いっぱいに文字を配する太く伸びやかな三藐院流、松花堂昭乗は和様を基調とした柔らかく品のある松花堂流で知られます。信尹の書風は江戸時代の公家や武家に広く学ばれ、昭乗の書も江戸時代を通じて手本として親しまれました。

Q.寛永の三筆は、書のほかにどんな分野で才能を示しましたか?

A.本阿弥光悦は蒔絵や楽焼の茶碗、版本の制作にも才能を発揮し、国宝の舟橋蒔絵硯箱や白楽茶碗「不二山」を残しました。近衛信尹は自ら描いた渡唐天神像に賛を添えた作品を多く伝え、書と絵の両方に才能を示しました。松花堂昭乗は水墨画や茶の湯にも通じ、料亭の松花堂弁当は昭乗にちなんで名づけられたものです。

Q.寛永の三筆ゆかりの地はどこにありますか?

A.三人のゆかりの地は、いずれも京都府にあります。本阿弥光悦の屋敷跡に営まれた光悦寺は京都市北区、近衛信尹の近衛家の屋敷が置かれた近衛邸跡は京都市上京区の京都御苑の北側、松花堂昭乗の草庵を移した松花堂庭園は八幡市です。直線距離では光悦寺と近衛邸跡が約4km、松花堂庭園は光悦寺から約20km、近衛邸跡から約19km離れています。

📍 所在地マップ

愛知県岐阜県三重県滋賀県大阪府奈良県福井県兵庫県和歌山県123本阿弥光悦近衛信尹松花堂昭乗50 km地図データ: Natural Earth
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