幕末の三舟

幕末の三舟

幕末の三舟は、江戸幕府の幕臣として動乱の時代を生きた勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の三人を、号にそろって「舟」の字が入ることから並べて呼ぶ名です。慶応4年(1868年)、泥舟が義弟の鉄舟を徳川慶喜の使者に推し、鉄舟が駿府で西郷隆盛と下交渉を行い、海舟が江戸で西郷と会談して、江戸城の無血開城が実現しました。三人の墓は東京の洗足池と谷中に残っています。

日本名数>幕末の三舟
勝海舟
🏯 歴史
📍 東京都 大田区

勝海舟

(かつかいしゅう)

勝海舟は、文政6年(1823年)に江戸の本所亀沢町で旗本勝小吉の子として生まれた幕臣で、幼名を麟太郎といいます。咸臨丸で太平洋を渡り、神戸に海軍操練所を開くなど、日本の海軍づくりに力を注ぎました。慶応4年(1868年)には陸軍総裁として西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城を実現させています。晩年は東京都大田区にある洗足池のほとりに別荘を構えました。

勝海舟の詳細を見る »
山岡鉄舟
🏯 歴史
📍 東京都 台東区

山岡鉄舟

(やまおかてっしゅう)

山岡鉄舟は、天保7年(1836年)に江戸の本所で旗本小野高福の子として生まれ、のちに槍術の名家山岡家を継いだ幕臣です。慶応4年(1868年)に徳川慶喜の使者として駿府の西郷隆盛のもとへ乗り込み、江戸城の無血開城への道を開きました。明治政府では明治天皇の侍従を務め、剣と禅と書を極めた人物として知られます。東京都台東区にある全生庵は、鉄舟自身が開いた寺です。

山岡鉄舟の詳細を見る »
高橋泥舟
🏯 歴史
📍 東京都 台東区

高橋泥舟

(たかはしでいしゅう)

高橋泥舟は、天保6年(1835年)に江戸で旗本山岡正業の次男として生まれ、母方の高橋家を継いだ幕臣で、名を政晃といいます。家に伝わる忍心流の槍術を極め、講武所の師範役を務めました。徳川慶喜の身辺を守る遊撃隊を率い、江戸を離れられない自分に代わって義弟の山岡鉄舟を西郷隆盛への使者に推しました。ゆかりの地は東京都台東区にある大雄寺です。

高橋泥舟の詳細を見る »

❓ 幕末の三舟のよくある質問

Q.幕末の三舟と呼ばれるのはなぜですか?

A.勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の三人の号に、そろって「舟」の字が入るためです。三人はいずれも江戸幕府の幕臣として動乱の時代を生きました。海舟という号は、佐久間象山が書いた「海舟書屋」という額から取ったものです。

Q.幕末の三舟は江戸城の無血開城でどんな役割を果たしましたか?

A.高橋泥舟が使者を推し、山岡鉄舟が下交渉を行い、勝海舟が会談をまとめました。慶応4年(1868年)、泥舟は義弟の鉄舟を徳川慶喜の使者に推挙し、鉄舟は駿府で西郷隆盛と降伏の条件を詰めました。これを受けて海舟が江戸の薩摩藩邸で西郷と会談し、総攻撃の中止を取り付けました。

Q.山岡鉄舟と高橋泥舟はどんな関係ですか?

A.義理の兄弟です。高橋泥舟の妹の英子が山岡鉄舟の妻で、泥舟は鉄舟の義兄にあたります。泥舟は旗本山岡正業の次男で、母方の高橋家を継いだため、生家の山岡家は英子と結婚した鉄舟が継ぐことになりました。

Q.幕末の三舟は明治維新のあとどのように生きましたか?

A.勝海舟と山岡鉄舟は新政府で重く用いられ、高橋泥舟は新政府に仕えませんでした。海舟は参議や海軍卿を務めて伯爵となり、鉄舟は明治天皇の侍従を務めました。泥舟は書をたしなみながら静かに暮らしたと伝わります。鉄舟は明治21年(1888年)、海舟は明治32年(1899年)、泥舟は明治36年(1903年)に世を去りました。

Q.幕末の三舟の墓はどこにあり、一緒に訪ねられますか?

A.三人の墓はいずれも東京都にあります。勝海舟の墓は大田区の洗足池のほとり、山岡鉄舟の墓は台東区谷中の全生庵、高橋泥舟の墓は同じ谷中の大雄寺の本堂の前にあります。全生庵と大雄寺は歩いてすぐの距離で、谷中の寺町であわせて訪ねられます。洗足池と谷中は直線距離で約15km離れています。

📍 所在地マップ

茨城県埼玉県山梨県神奈川県静岡県千葉県東京都栃木県321勝海舟山岡鉄舟高橋泥舟50 km地図データ: Natural Earth
  1. 1勝海舟Google マップ
  2. 2山岡鉄舟Google マップ
  3. 3高橋泥舟Google マップ