幕末の三舟は、江戸幕府の幕臣として動乱の時代を生きた勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の三人を、号にそろって「舟」の字が入ることから並べて呼ぶ名です。慶応4年(1868年)、泥舟が義弟の鉄舟を徳川慶喜の使者に推し、鉄舟が駿府で西郷隆盛と下交渉を行い、海舟が江戸で西郷と会談して、江戸城の無血開城が実現しました。三人の墓は東京の洗足池と谷中に残っています。
A.勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の三人の号に、そろって「舟」の字が入るためです。三人はいずれも江戸幕府の幕臣として動乱の時代を生きました。海舟という号は、佐久間象山が書いた「海舟書屋」という額から取ったものです。
A.高橋泥舟が使者を推し、山岡鉄舟が下交渉を行い、勝海舟が会談をまとめました。慶応4年(1868年)、泥舟は義弟の鉄舟を徳川慶喜の使者に推挙し、鉄舟は駿府で西郷隆盛と降伏の条件を詰めました。これを受けて海舟が江戸の薩摩藩邸で西郷と会談し、総攻撃の中止を取り付けました。
A.義理の兄弟です。高橋泥舟の妹の英子が山岡鉄舟の妻で、泥舟は鉄舟の義兄にあたります。泥舟は旗本山岡正業の次男で、母方の高橋家を継いだため、生家の山岡家は英子と結婚した鉄舟が継ぐことになりました。
A.勝海舟と山岡鉄舟は新政府で重く用いられ、高橋泥舟は新政府に仕えませんでした。海舟は参議や海軍卿を務めて伯爵となり、鉄舟は明治天皇の侍従を務めました。泥舟は書をたしなみながら静かに暮らしたと伝わります。鉄舟は明治21年(1888年)、海舟は明治32年(1899年)、泥舟は明治36年(1903年)に世を去りました。
A.三人の墓はいずれも東京都にあります。勝海舟の墓は大田区の洗足池のほとり、山岡鉄舟の墓は台東区谷中の全生庵、高橋泥舟の墓は同じ谷中の大雄寺の本堂の前にあります。全生庵と大雄寺は歩いてすぐの距離で、谷中の寺町であわせて訪ねられます。洗足池と谷中は直線距離で約15km離れています。