【概要】
旧陸軍軍用地などが開放され、昭和のナショナルプロジェクトとして大規模な開拓が行われました。碁盤の目状に整備された広大な農地や防風林が特徴的で、現在は野菜や畜産が盛んな農業地帯となっています。
【歴史】
青森県十和田市にある三本木原は、奥入瀬川が刻んだ台地に八甲田山の火山灰が積もった水の乏しい原野でした。1855年(安政2年)、盛岡藩士の新渡戸傳が六十三歳でこの地の開墾に着手し、長男の十次郎らが工事を引き継いで、1859年(安政6年)5月4日についに人工水路の通水を成し遂げます。十和田(三本木原)の開拓は、この一日から本格的に動き出し、荒野は少しずつ田畑へと姿を変えていきました。
【特徴】
開拓の生命線となったのが、奥入瀬川の上流から水を引いた人工河川「稲生川」です。穴堰と呼ばれるトンネル水路を二本も掘り抜いて台地の上まで水を導く難工事で、通された水は農業用水にとどまらず、生活用水や防火用水としても町なかの水路へ流されました。あわせて碁盤の目状の町割りが行われ、現在の市街地の骨格が形づくられています。工事は資金難にも見舞われましたが、新渡戸家三代にわたって受け継がれました。
【見どころ】
中心部を貫く官庁街通りは、開拓期の直線的な町割りを受け継ぐ約一・一キロメートルの並木道で、桜と松が交互に続く「日本の道100選」の一つに選ばれています。新渡戸家三代の功績を伝える太素塚では、通水を果たした5月4日にちなむ太素祭が毎年開かれ、春の訪れを告げます。十和田湖や奥入瀬渓流をめぐる旅の拠点でもあり、通りに面して建つ現代美術館は、開拓が生んだ直線の道を新しい文化の舞台に変えています。
【トリビア】
新渡戸傳の孫が、『武士道』を著して国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造です。旧五千円札の肖像で知られる稲造の一族が、北の原野を農地へと変えた開拓者だったことは意外と知られていません。戦後は軍馬補充部の広大な用地が開放されて市街地の都市計画に生かされ、国営三本木原開墾事業も1966年まで続けられました。十和田は矢吹・川南とともに、三大開拓地としての交流を今も重ねています。

