黒田騒動

(くろだそうどう)
📍 福岡県 福岡市🏯 歴史

【概要】

江戸時代前期、福岡藩黒田家で起きたお家騒動。「栗山大膳事件」とも。藩主黒田忠之の放蕩と側近重用に危機感を抱いた筆頭家老・栗山大膳が、藩主の謀反を幕府に訴え出るという前代未聞の行動に出た。結果、大膳は配流となったが、藩は改易を免れた。忠義の行いとして伝わる。

【歴史】

黒田騒動は、福岡藩黒田家52万石で起きたお家騒動で、「栗山大膳事件」とも呼ばれる。初代藩主の黒田長政は嫡子忠之の気性を危ぶんで廃嫡を考えたが、傅役であった栗山大膳(利章)らの取りなしによって思いとどまったと伝わる。寛永元年(1624年)に忠之が2代藩主となると、側近の倉八十太夫を1万石で取り立て、大船鳳凰丸の建造や足軽の増員を進めたため、旧来の重臣たちと激しく対立していった。

【特徴】

幕府が大名の軍備拡張を厳しく警戒していた時代にあって、忠之の振る舞いは家の存亡に関わるものであった。諫言を退けられた栗山大膳は寛永9年(1632年)6月、藩主忠之に謀反の疑いありと幕府へ訴え出る。家臣が主君を訴えるのは前代未聞であったが、翌寛永10年に将軍徳川家光が自ら裁定を下し、忠之は咎めなしで所領を安堵され、大膳は乱心とされて陸奥盛岡藩の南部家へ預けられた。

【見どころ】

黒田騒動の舞台となったのは、福岡県福岡市にある福岡城で、跡地は舞鶴公園として整備され、多聞櫓や潮見櫓が往時の石垣とともに残っている。市内の崇福寺には黒田官兵衛や長政が眠る福岡藩主黒田家墓所があり、博多の東長寺には忠之の巨大な五輪塔が立つ。忠之は父と宗派を違えて空海ゆかりの東長寺を墓所に選ぶよう遺言したと伝わり、その墓前には殉死した5人の家臣の墓碑が静かに並んでいる。

【トリビア】

栗山大膳の訴えは、藩の取り潰しを避けるため、あえて家臣同士の争いという形に持ち込んだ決死の芝居だったとする見方が根強い。大膳は流罪同然の身でありながら150人扶持を与えられて南部家に厚遇され、承応元年(1652年)に没した。墓は盛岡の恩流寺にある。黒田騒動は江戸中期以降、歌舞伎や講談の演目として盛んに演じられ、森鷗外も歴史小説『栗山大膳』を書き残している。

📅 最終更新: 2026/9/6
黒田騒動
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です