畠山氏

(はたけやまし)
📍 近畿京都府 京都市上京区🏯 歴史

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【概要】

河内・紀伊・越中などの守護を務めた畠山氏は、基国が一族で初めて管領となり、子の満家も管領として幕政を支えた家です。15世紀半ばには畠山持国の後継をめぐって義就と政長が争い、1467年に京都の上御霊神社で起きた両者の合戦が、応仁の乱の始まりとされています。分家は能登の守護となり、七尾城を本拠としました。

【歴史】

畠山の名は、もとは鎌倉幕府の御家人だった畠山重忠の家のものです。重忠が1205年に滅ぼされたのち、その妻を迎えた足利義純が名跡を継ぎ、足利一門の畠山氏が始まりました。南北朝の動乱では国清らが足利方として活躍し、室町時代には基国が河内・紀伊・越中などの守護となって、1398年に畠山氏で初めて管領に就いています。

【特徴】

基国の跡を継いだ満家は河内・紀伊・越中の守護となり、弟の満慶の系統は能登の守護を受け継いで能登畠山氏を立てました。のちに嫡流は二つに割れ、政長の系統は尾州家、義就の系統は総州家と呼ばれて、戦国時代まで河内を舞台に争い続けます。なお嫡流の当主は代々衛門督に任じられたことから、その唐名をとって金吾家とも呼ばれました。

【見どころ】

京都市上京区にある上御霊神社は、非業の死を遂げた人々の霊を鎮めるために祀られた御霊社です。1467年の正月、管領を罷免された畠山政長がこの境内の森に陣を構え、従兄弟の義就の軍勢と戦いました。この御霊合戦が応仁の乱の発端とされ、鳥居の前には応仁の乱勃発地の石碑が立っています。いまは緑に包まれた静かな社で、地下鉄の鞍馬口駅から歩いてすぐです。

【トリビア】

家督争いの始まりは、畠山持国がはじめ弟の持富を後継に定めながら、のちに実子の義就に改めたことにあります。家臣も二派に割れ、持富の子の弥三郎、ついで弟の政長が反義就派に担がれました。応仁の乱では政長が東軍、義就が西軍に属し、乱が終わったあとも河内で戦いが続きます。1493年には政長が河内の正覚寺の陣で自害し、争いは子の代へ持ち越されました。

📅 最終更新: 2026/11/6
畠山氏
※画像はAIによって生成されたイメージ画像です