三木一草は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が建武の新政で重く用いた、結城親光・楠木正成・名和長年・千種忠顕の四人をまとめた呼び名です。結城と楠木、名和長年の官名である伯耆守の「伯耆」に含まれる「き」を三本の木に、千種の「くさ」を一本の草に見立てた言葉遊びで、『太平記』にもこの呼び名が見えます。天皇のそば近くで急に栄達した新しい側近たちを象徴する顔ぶれでしたが、四人はいずれも建武3年(1336年)、足利尊氏方との戦いのなかで命を落としました。
A.四人の名を木と草に見立てた言葉遊びが由来です。結城親光の「結城」、楠木正成の「楠木」、名和長年の官名である伯耆守の「伯耆」に含まれる「き」を三本の木に、千種忠顕の「千種」の「くさ」を一本の草に見立てています。『太平記』にもこの呼び名が見えます。
A.四人はいずれも建武3年(1336年)、足利尊氏方との戦いのなかで命を落としました。正月に結城親光が京都で討たれ、5月には楠木正成が湊川で自害し、6月には千種忠顕が比叡山の麓の西坂本で、名和長年が京都の市中で相次いで戦死しています。わずか半年ほどで天皇の側近たちが姿を消したことは、建武の新政の崩れていく速さを物語ります。
A.四人はそれぞれの立場で後醍醐天皇の倒幕を支えました。楠木正成は赤坂城と千早城で少数の兵で幕府の大軍を長く引きつけ、名和長年は隠岐を脱け出した天皇を迎えて船上山に立てこもりました。千種忠顕は船上山から山陰の兵を率いて京都へ進んで六波羅探題を攻め落とし、はじめ幕府方だった結城親光も、天皇の側について六波羅探題を攻めたとされます。
A.千種忠顕は、三木一草の四人のなかでただ一人の公家でした。村上源氏の流れをくむ公家で、蔵人頭と近衛中将を兼ねたことから頭中将と呼ばれました。公家でありながら軍勢を率いて戦った点に特色があり、『太平記』は建武政権のもとでの華やかな暮らしぶりを手厳しく描いています。
A.四人のゆかりの地は四つの府県に分かれています。結城親光は福島県白河市の白川城跡、楠木正成は兵庫県神戸市の湊川神社、名和長年は鳥取県大山町の名和神社、千種忠顕は京都府京都市左京区の西坂本です。直線距離では湊川神社と西坂本が約70kmと最も近く、白川城跡と名和神社が約630kmと最も離れています。